「読めない本」は、中世から続く謎だった

ヴォイニッチ手稿

わたしたちが「世界でもっとも読めない本」と聞いて思い浮かべるものの一つに、ヴォイニッチ手稿があります。見たことのない文字、奇妙な植物の図、星座とも占星術図ともつかない円形図、浴場のような場所に佇む裸婦の図——ロマンを刺激する要素は、これ以上ないほど揃っています。ただ、わたしはこの手稿を「正体不明の怪奇文書」として片づけてしまうのではなく、何がすでに確認されている事実で、何がいまだ仮説にすぎないのかを、できるだけ多角的に確認してみたいと思いました。

基本情報 ― 一冊の写本として

ヴォイニッチ手稿は、現在アメリカ・イェール大学バイネッケ稀覯本・写本図書館が所蔵する写本で、整理番号はMS 408です。植物の図、天文・占星術らしき図、浴場のような図、薬瓶や根の図、レシピ風の文章などで構成されており、本文はこれまで誰にも完全には解読されていない未知の文字体系で書かれています。挿絵だけ見ても薬草学書のように見えますが、肝心の文章が読めないため、内容を断定することはできません。

発見と来歴 ― どこまでが事実で、どこからが伝聞か

近代の研究史は1912年、古書商ウィルフリッド・ヴォイニッチがローマ近郊フラスカーティのイエズス会系コレクションから本書を取得したところから始まります。手稿の名前もこの人物に由来します。その後1961年にハンス・P・クラウスの手に渡り、1969年にイェール大学へ寄贈されました。以後は同大学による保存研究とデジタル公開が、主要な参照基盤になっています。

それ以前の経歴として比較的確度が高いのは、17世紀のプラハに存在していたという点です。表紙側のフォリオには紫外線下で確認できる所蔵者の痕があり、神聖ローマ帝国の宮廷で活動した医師ヤコブス・デ・テペネツが所有していた可能性が高いとされています。

 評価:中(紫外線下の痕跡という物証があり、比較的根拠は強い)

さらに遡ると、「神聖ローマ皇帝ルドルフ2世が600ドゥカートで購入し、中世の学者ロジャー・ベーコンの著作だと考えた」という話も知られています。ただしこれは、1665年に学者ヨハネス・マルクス・マルチが哲学者アタナシウス・キルヒャーへ送った書簡に記された伝聞情報であり、一次証拠そのものではありません。

評価:中(伝聞経由の情報のため、来歴としては参考程度に留めるべき)

一方、かつて広く語られた「魔術師ジョン・ディーがルドルフ2世に売った」という説は、現在では証拠が薄いとみなされる傾向が強くなっています。これは「定説」ではなく「かつて広まった仮説」として扱うのが安全です。

 評価:低(裏付ける一次資料が乏しい)

17世紀の目撃証言 ― すでに「読めない本」だった

手稿が「読めない謎の本」だったのは、現代に始まったことではありません。1630年代末、当時の所有者ゲオルク・バレシュは、キルヒャーへ写しを送り、多数の薬草らしき図、星図、化学記号のように見える図像から、この本を医学書ではないかと推測しました。1639年、キルヒャーはその資料を受け取りましたが、まだ解釈には成功していないと返答しています。1665年にはマルチが、高齢と視力の低下のなかで原本そのものをキルヒャーへ送付し、その後も友人キナーらが進展を照会し続けました。つまり、17世紀の博識家たちにとっても、すでにこの本は「読めない謎の文書」だったのです。この事実は、「読めない本」という評判そのものが、近代になってからの演出ではなく、かなり古い層まで遡ることを示しています。

科学的検証 ― 機器が語る「素材の年代」

ここからは、感覚ではなく検査機器の話です。イェール大学の保存科学チームとアリゾナ大学による放射性炭素年代測定の結果、羊皮紙は15世紀前半、おおよそ1404年から1438年の間に作られたものと判定されました。この結果により、13世紀の人物であるロジャー・ベーコンを著者とする説は大きく後退しています。

さらに、ラマン分光や蛍光X線分析、マルチスペクトル撮影といった非破壊検査によって、顔料・インク・製本材料が15世紀写本の材料と整合していることも確認されました。現代のインクや顔料が使われた痕跡は見つかっていません。赤色顔料からは石英結晶も検出されており、中世写本に見られる砂による乾燥処理の痕跡である可能性が指摘されています。

マンチェスター大学の研究チームによるアミノ酸配列解析では、羊皮紙が子牛皮製であり、全体で14頭から15頭分が必要だったと推定されています。手の込んだ悪戯やいたずら書きとして片づけるには、決して安いコストではありません。

評価:高(複数の独立した非破壊検査が一致して「中世由来」を支持している) ただし、重要な注意点があります。これらの科学的検証が証明したのは「素材の年代と整合性」であり、「本文の意味」ではありません。羊皮紙が中世のものであっても、文章の言語や暗号方式、著者、目的はいまだ不明のままです。「中世の本物である」ことと「内容が真実である」ことは、まったく別の話なのです。

言語学・統計学から見た評価 ― 「言語らしさ」と「言語らしくなさ」の同居

言語学的な分析からは、興味深い結果が出ています。イェール大学の言語学レビューによると、本文の語の分布はZipfの法則に適合し、ページや段落をまたいだ語の出現パターンや、図像のテーマと語彙クラスタの対応関係も確認されています。これらは、本文が単なる出鱈目な文字列ではなく、何らかの意味を持つ符号化された言語である可能性を支持する材料です。2013年のPLOS ONE誌に掲載された論文でも、語の分布や共起関係に非自明な統計構造があると報告されており、「単純な作り物」とする説の範囲は徐々に狭まっています。

一方で、文字単位で見ると条件付きエントロピーが低く、既知のヨーロッパの言語よりも予測しやすいという、自然言語としては異様な規則性も報告されています。「自然言語らしさ」と「自然言語らしくない規則性」が同時に存在しているわけです。なお、これらの分析の多くはEVA転写という便宜的な文字起こし方式に依存しているため、文字の切り分け方によって統計値が変わる可能性も残ります。

評価:中(統計的には有望な材料が多いが、解読の証明にはまだ届いていない)

主要な仮説の現在地

ここまでの内容を、主要な仮説ごとに整理すると次のようになります。

仮説評価根拠・コメント
現代の偽造品説放射性炭素年代測定・顔料分析が中世由来と整合し、現代材料の証拠が見つかっていない。
ロジャー・ベーコン著者説羊皮紙の年代が13世紀のベーコンの生没年と合わない。
中世の悪戯本(ホークス)説中〜低完全には否定できないが、製作コスト(子牛皮14〜15頭分)と語の統計構造が単純説には不利。
未知言語・高度な符号化テキスト説直接証明はないが、Zipfの法則への適合など言語統計の観点で最も無理が少ない。
特定言語への解読成功説単発の発表は多いが、査読・再現性・全文への適用可能性のいずれも揃っていない。

おわりに

ヴォイニッチ手稿を「偽物か本物か」の二択で語るのは、もう少し古い視点なのかもしれません。素材はかなり高い確度で中世のものでありながら、内容は依然として未解読——この二重構造こそが、いまもこの手稿を特別な存在にしているのだと、わたしは思います。放射性炭素年代測定や顔料分析は「古い本であること」を支えてくれますが、「何が書かれているか」までは教えてくれません。このギャップに、ロマンを感じずにはいられないのです。

参考文献・出典

Beinecke Rare Book & Manuscript Library, Yale University:https://beinecke.library.yale.edu/collections/highlights/voynich-manuscript
Yale Library Digital Collections(MS 408):https://collections.library.yale.edu/catalog/2002046
Yale News(2016):https://news.yale.edu/2016/10/31/mysterious-voynich-manuscript-reborn-facsimile-edition
Yale Alumni Academy, The Linguistics of the Voynich Manuscript:https://alumniacademy.yale.edu/sites/default/files/2021-07/The%20Linguistics%20of%20the%20Voynich%20Manuscript.pdf
Montemurro et al. (2013), PLOS ONE / PMC:https://pmc.ncbi.nlm.nih.gov/articles/PMC3689824/
voynich.nu, History:https://www.voynich.nu/history.html
voynich.nu, Letters:https://www.voynich.nu/letters.html

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